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Sasin TipchaiによるPixabayからの画像

ポーシャ・ネルソン「5つの短い章からなる自叙伝」から無常を学ぶ

ポーシャ・ネルソン(Portia Nelson; May 27, 1920 – March 6, 2001)というアメリカ人の有名な歌手の書いた「5つの短い章からなる自叙伝」(Autobiography in Five Short Chapters)というタイトルの短い詩があります。内容はすごくシンプルでそれでいてすごく深みがある詩になっています。

この詩は日本でもすでにとても有名らしく全文(日本語訳)を載せているブログもけっこうあるようですね。私もこのブログで全文を掲載して紹介しようかな…と考えたのですが、著作権の関係が今一つはっきりしないし(ポーシャの没後70年経ってない)、ほかの人がやっていればOKというのは考えが浅はかすぎると思うし、なにより故人に敬意を表するということで止めておきます。なお、英語のウィキペディアは英語によるこの詩の全文が載っています。日本語で読みたい方は、「ポーシャ・ネルソン」「5つの短い章からなる自叙伝」などで検索すると、いろんなブログで全文が紹介されています。(ウェブサイトを訪れて中身を確認すること自体は問題ないと思います。)

ポーシャ自身、著名なシンガーではありましたが、晩年はがんとの闘病生活を送り、Wikipediaによれば、乳房切除後にがんから一度は生還を果たした方です。そんな人が残した自叙伝(詩)は、読む人が読めば、メロディのある歌よりも、確実に心に響くことは間違いないでしょう。

ポーシャの詩との出会い

私がこの詩の存在を知ったのはチベット人のソギャル・リンポチェ(Sogyal Rinpoche; 1947 – 28 August 2019)の著書「The Tibetan Book of Living and Dead」に引用されていたからです。リンポチェとはチベット仏教の中でも特に偉いお坊さんにつけられる称号のようですね。

私の父親が不治の病に苦しんでいた時、私は父に何がしてあげられるのか悩んでいました。自然を愛し、自由を愛し、無限の愛情を子どもたちに注いでくれていた父…。年頃で反抗期だった私はそんな父に、ずいぶん生意気な口をきいてきたと思うし、社会人になってからも随分と迷惑をかけてきたかもしれません。そんな父が余命数か月というときに、私はこれまで、お世辞にも出来のいい息子とは言えなかったかもしれないけど、本当に何かしてあげたいと思って…、その時に出会ったのがこの本だったのです。満員電車の中で人目をはばからずボロボロ涙を流しながら読んだ記憶があります(^_^;)。日本語の訳本でも630ページくらいあるペーパーバックですごい厚みですが、私は一気に読み、即、実践しました。もちろん、現実に父の看病などもしながら…。自己満足かもしれませんが、私は無宗教であったとしても、自分のできる限りのことをしたつもりです。チベット仏教の偉いお坊さんが書いた本なので、もちろんチベット仏教的なコンテクストからの切り口になっていますが、宗教に関係なく、無宗教な人にとっても素晴らしいことや気づきとなることがいっぱい書かれています。私は今でも特に前半部分は繰り返し読んでいます。「無常」を知るまたとないきっかけになるかもしれません。

…無情じゃないよ、無常だよ(^_^;)

ソギャル・リンポチェの著書の中のポーシャの詩

本の前半部分では、「生きる」「無常」「心」「愛」「執着」などの深いテーマが独特の切り口によって掘り下げられていきます。

ポーシャ・ネルソンの「5つの短い章からなる自叙伝」は、第三章「内省と変身」の中で出てきます。「5つの短い章からなる自叙伝」という詩は、かいつまんでいえば、いつもの道を歩いている主人公が何度も何度もいつもの落とし穴に落ち、その都度、時間と労力をかけ四苦八苦して落とし穴から這い上がってきます。やがて、そこにいつものように落とし穴があるのに!…と、わかっていながらも落とし穴にまんまと落ちてしまうのは…、

習慣的に、しかしかなり盲目的に日常を過ごしていた(無意識に道を歩いていた)のが原因だ…

というような発見を主人公はします。発見をした主人公は、最初のうちはそれがわかっている状態ですら何度も落とし穴に落ちますが、やがて「通りを歩く」というありふれた日常の瞬間の一瞬一瞬を意識するようになります。

つまり、

①「道を歩いている」時…、

→自分の行為の認識がリアルタイムでONになっている。道を歩いていることが、記憶ではなく、リアルタイムで逐一認識できている。

②「前方に穴を発見」した時…

→リアルタイムで自己認識。目の前に穴があることを発見したと自ら気づく。後になってから気づくのではなく、落とし穴が視界に現れたその瞬間に「目の前に落とし穴がある」とはっきり意識するわけです。

③「穴に落ちなくて済む」(回避)

ここで言われていることは、まぎれもなく自己観察なのではないでしょうか?

ポーシャの詩と自己観察

今まで、あまりにも当然のことすぎて意識もしなかったもの…

「あまりにも当然のこと過ぎて」…というのは、それがもやは固定的な習慣になってしまっているため、通常、その出来事の前後に起こっていることも含め容易に見過ごしてしまうことを意味します。つまりそれは、我々の日常そのものなのではないでしょうか?そして、その固定観念が原因で、ポーシャの詩の主人公は何度も穴に落ちてしまっているのです。一見、当たり前のように思えても、「鉄の現実」に思えても、実はそうではない…ポーシャの詩は、われわれが「無常」の中を生きていることも教えてくれます。

知らず知らずのうちにとんでもないこと(これは悪い意味です)をしてしまったり、そうなるのはわかっているのに、どういう訳か、どうしてもそうなっちゃうんだよね~…っていう人は、それが習慣の座まで高められてしまっているのかもしれません。(どうしても抜け出せないクセというのがこれに当てはまるかもしれません。)

通常、我々は何か失敗してから「何かを学ぶ」のであり、場合によっては「何度も同じ失敗を繰り返して」、すごく長い時間をかけて何かを学ぶことにわけですが、つまり「気づき」がいつも後手後手に回ってしまい、神経回路がつながるのに時間がかかりすぎる、ということが起こりがちです。そこに自己観察、いわゆるリアルタイムのプレゼンス(自己観察・自己認識)という要素を加えれば、「学ぶ」までの時間が短縮できるかもしれません。

パソコンやテレビ、車が故障したときには、まずどういう状況になっているか観察するでしょう。お医者さんも、患者さんの話をじっくり聞いたり、客観的な数値が出る検査を何重にも行って十分患者の今の状態を観察してから、治療方針を決めます。そして、そのなかで「生きた知恵」が生まれ、次回、同様なことが発生したらそれを活かすか、そうでなくても、新たなデータとして蓄積していきます。

日常の自己観察もこれと似ていますね。日常の普通には気づかない習慣は、何かの思考や行為がこれまでに無限回繰り返されて出来上がったものと言えそうですが、それを逐一観察することによって、我々は自己の奥深くに根付いている習慣さえ変えることができる可能性が残されているのです。

ポーシャ・ネルソンの「5つの短い章からなる自叙伝」はそんなことをいつも思い出させてくれます。

以上、他のブログからの流用ではない、私なりのポーシャ・ネルソン「5つの短い章からなる自叙伝」の解説でした~

楽しんでいただけましたか?

最後までお読みくださいましてありがとうございます!