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ヨブとサルトルの実存主義的な関係・本質が先か実存が先か

みなさま、こんにちは。

今宵はお月様もきれいですね。

このような美しい夜のひと時を楽しんでいるわれわれが、まさに今ここに存在してることについて考えてみたいと思います。んー。ちょっと哲学的というか何というか。

具体的には旧約聖書のヨブ記とサルトルを引き合いに出して、人間の本質と実存について少しだけ切り込んでみたいと思います。

すみません。最初に断わっておきますが、私はその道の専門家ではないので物語の解釈や見解については、適当といっちゃあれですけど、個人的なものも含まれていますので、もし間違っていたらごめんなさい。

特にヨブ記は難しいですよね。サルトルも難しいけど。

さてさて、ヨブ記のあらすじから

ヨブは信心深く神様も一目置いた存在でした。

そんな神様にサタンは彼の敬虔さは「紛いもの」でしかなく、それはちょっと試してみればすぐぼろを出すに決まっているよ、と神様に言います。(ヨブ記ではサタンは神様の僕として描かれているのがちょっと面白いですね。)

それを聞いた神様は「じゃあ、いっちょやってみようか」ということになります。

かくして、ヨブの身の回りにいろいろな不幸ことが起こり、彼の人生はズタズタに引き裂かれてしまうのでした。ヨブの苦悩がはじまります。「どうして何の罪も犯していない自分がこんな目に合わなけりゃならないんだ」と。(ごめんね。結構、はしょりました!)

心配した友達が3人訪ねて来て彼を慰めようとするのですが、結局は、慰めるどころか彼を責める結果となってしまいます。「君に罪があるからこそ、そんな目にあうんじゃないか!わかってる?自分の罪を認めて、今すぐ許しを神様に乞うべきだよ!」と。

ヨブは自分に罪があるとは決して思えませんでした。「何にも悪いこともしていない私が、なんでこんな目に…」ヨブは「こんなことなら生まれてこなければよかった」とさえ考えます。

最後の最後に神様がヨブの前に現れます。ヨブは、「神の予定が人間の知恵の外にある」ということ、即ち、「人間にはどうしたって神の予定を知り得ない」ということや、「すごくいいことや、すごく辛いと思えることも、実は全ては神様の予定の中にすでにあり、それは単なる因果論を越えている」ということを再認識させられます。

ヨブの友達3人がヨブにわからせようとした理論、即ち、「悲惨な現実<結果>は、それに相応する罪<原因>をヨブが持っていたからこそ起こるべくして起こった」という因果論はある点では正しいかもしれないが、だからと言って、それがすべてを支配するのではなく、神の予定はそれをはるかに超えているものであることが神様により、明らかにされます。

3人は悔い改め、ヨブは彼らを許すことで、神から再び富と幸せを与えられたのでした。

ヨブは信仰を試され、見事に神様の期待に応えたのです。

【見解】

ヨブは結局自分の信念を貫き通しました。たとえ自分はそうは思わなくても友達の言うとおりに罪を懺悔していたら、神様はヨブの目の前には現れなかったかもしれません。そんなときにはサタンが「日和ったな」とほくそ笑んだことでしょうね。

一般的にはキリスト教的な見解では、人間の不滅の本質は「魂」であるとされ、「魂」は死後に報酬か懲罰を受けると考えられているようです。神様からの報酬を受けることとは即ち、神の王国に入ることであり、それは、神への信仰の実践を通してのみ叶うものであります。

つまり、まず神様に与えられた人間としての本質があって、何とかして、どうにかしてその本質に気づき、道に入るために人間の実存がある、という考えになると思います。

【サルトルの考えは!?】

ところが、フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルはこの考え方を受け入れることはしませんでした。彼が考えたのは「実存が本質に先立つ」というものです。

我々が日々、生きている瞬間瞬間は、裏で筋書きのあるストーリーなどでは決してなく、常に「でたとこ勝負」でしかない。人間の本質というものは、実存した人生の軌跡を振り返ってはじめて「ああ、そういうものだったんだ」と決められるものなんだ、という主張をします。

かくして、サルトルは無神論的な実存主義を展開していきます。

【小説のリアリズムとは?】

実はこのあたりから「イギリス小説とリアリズム」の記事につながってきたりします。ここから、リアリズムを標榜する小説家は、はたして神の視点に立てるのか、という論を学生時代の私は展開していくのでありました。(ご興味がおありの方は「リアリズムとイギリス小説についての考察・リアリズムって何?も読んでね!)

まあ、ヨブ記の後半部分で明らかにされているように、神様の予定が人知を超えたところにある、と考えればサルトルの主張も実は神の掌の中にあると言えなくもないかもしれません。これって、孫悟空が筋斗雲に乗ってお釈迦様の手の届かないところまで行ける、と言い張ってそれを実行したけども、結局はお釈迦さまの掌の中から一歩も出てはいない、というお話とどこか似ていますね。

結局のところ、コーラを飲めばゲップがでるが如く、因果律も確かにあると思いますし、神様の予定調和もあるかも知れません。

そして、時計を見れば「チクタク」が止めどもなく流れていきます。

私たちにできることは、二度と帰らない時間を浪費せず「今」を精一杯生きる、そして楽しむことでしょう。

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最後はちょっと強引だったかな?

最後までお読みくださいましてありがとうございます。

またお会いしましょう!

CIAO!