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「自己観察道場」というサイト
少し前に「自己観察道場」という、とても興味深いサイトがあり、私はちょくちょく訪れていたことがあります。ズバリ自己観察をテーマとするサイトで、もの好きな読者なら知っている人も多いかもしれません。その記事の内容からいって想念観察を推奨する「Fuji日本」というサイトと同じ系列のサイトであることは確実でしょう。しかしブログに書かれている内容そのものは「Fuji日本」よりも「自己観察道場」のほうが内容を掘り下げていた印象があります。(Fuji日本では自己観察道場の内容が書籍にしたものなどの販売をしている模様)。
「自己観察道場」のサイトの作者は、例えば学者とか大学教授のような、何かの研究テーマについて文章を読み書きすることを生業としていたか、「物書き」そのものだったかもしれません。いや大学の授業風景の記事とかもあったと思うので、おそらくは大学の講師か先生だったんじゃないかと思われます。ブログは、テキストファイルをそのままページにしたような感じでレイアウトとかにはほとんどこだわりが感じられませんでしたが、そこに書いてある内容が、私を含めたその辺のただの人が書いた文章とは全然違うオーラを放っていました。
プロバイダのブログサービス終了に伴い「自己観察道場」のサイトが消滅してから(推察)、ほかのプロバイダで再開されていることを祈って探してもみましたが。ずばり言って「自己観察道場」の記事をそのままパクっていたりするサイトがあるのにはちょっと残念な感じもしました…。いやもしかしてご本人所有の別のサイトの可能性もありますが、ほかの記事を読むとその記事だけ、やたら内容が濃いので丸パクリというのが見え見えな感じです…。
しかし、怒りや不満、攻撃の感情が湧いてきたときに無条件に支配されてしまうのではなく、それに気づいて突き放せるかどうか、というのが「自己観察道場」で重点内容の一つであったので、そういうことがここで試されていると考えることもできます。(とはいえ他人の記事のパクりや丸パクリが肯定されるわけでは全くありません!)
本物のサイトは違う!
玉石混交ともいえるインターネットの世界では、例えば一つの中心的な情報発信サイト(大手サイトや、その道の権威のサイトなど)からのただの「受け売り」の情報ばかりを発信しているサイトも多くあり、本当にガッカリさせられることも多いですね。まあ、他人の目を引き、読んでもらえる記事を書く練習を実地でやっている場合も多くあり、そうした中から面白い書き手がいずれ生まれ育っててくることを考えれば、まんざらそれが「悪である」と一方的に決めつける必要なないかもしれません。でも、中には独自の世界・主張を展開しているサイトもあることも事実です。(私もそういうサイトが作れたらいいなと思います。)「自己観察道場」はそんな独自の視点を持つ優れたサイトでした。とはいえ、サイトで扱う幅広いテーマの中には、自分の考えとは相容れない部分も所々にあったりもします。でも、こうしたサイトの究極の目的は、興味のある読者に役に立つであろう情報や考え方を提供することであって、決して「強制」や「洗脳」ではないと思うので、そこに書かれている全てを無条件に受け入れる必要なないと思うのです。今の自分に必要と思ったものだけを吸収していけばいいと思います。
ここからが本題!
自己観察道場でものすごく興味をひかれたものの一つに、我々人間が持っている「鏡」の特性について書かれていた記事があります。それは、簡単に言えば、他人の中に、決して見たくなかった自分の姿が「鏡」として投影されているというものです。(しかしここから先は、私流の解釈なので必ずしも正確な解釈とは異なる可能性があることをご承知おきください。)たとえば、日常生活でイヤ~な感じのするおじさんや、生理的に受け付けられないような異性の中には、実は、そうあってほしくない、そうあってはならないと、ず~っと自分の中で拒絶し続けてきたもう一人の自分の姿が投影されているという考え方です。我々は、自分についてはいつも、心がきれいで、見た目もきれいで、清潔で、お金もそこそこあって、人並みになんでもできて、温厚で、気が利いて…つまり自分が素敵な善人であると信じ込み、それを周りの人にもわかってもらおうと、いつも一生懸命ですよね。ところが、人間がトータルな存在であるというところから考えると、それは「プラス」のところだけを「いいとこどり」しているだけに過ぎません。プラスの面だけを追求するとどうなるか、バランスの関係上、自分の中でマイナスな面も次々に発生してくるのです。我々の人生を「振り子」(つまりバイオリズム)にたとえると、プラスに大きく振り出せば、やがてはその分、大きくマイナスに揺り戻しがくるといえば少しはわかりやすいかもしれません。(「自己観察道場」では実際に振り子の理論も使っていました。)
自分の中にあるダークな側面は、それが「許せない自分」と認識されると、たちまち「なかったもの」「ありえないもの」として自己に拒絶されることによって、やがて潜在意識の奥のほうへ追いやられ、時には自分の意識の中にもひょっこり顔を出したりもしますが、結局は長いこと無視され続け、やがては、自分以外の他人の風体や仕草となって外へ現実となって投影されるのです。もともと自分が毛嫌いしてきたダークな側面ですから、他人にそれを見つけたときに、無性にイライラしたり怒りの感情が瞬時に沸点に到達するというのも無理はないかもしれません。
鏡は見たくないものも見せてくれる
しかし、そこで、自分の目の前に姿を現したこのイケ好かない人物や、目の前に展開されている虫唾の走るような光景が、実は自分自身の投影に他ならないと見抜くことができればどうなるでしょうか?長年、拒絶され無視され続けてきたダークな自分自身の片割れは、やっと元の自分自身からその存在を認められ、やがては元の自分自身に統合されていくことにより、自分の中での一つのバランスが再調整されていきます。つまり、その気になる人物からは嫌な部分が跡形もなく消えたと感じられるか、ほかのものに変容するか、自分がそれを見ても特に気にならなくなる、というミラクルが起きるのです。そうなった暁には、極端にトゲトゲしいほど潔癖症気味であった自分はもっと穏やで平和な心を取り戻していることに気がつくかもしれません。トータルな人間に一歩近づくわけです。
まあ、ダークな自分を認めるといっても、もちろん、ダークな考えが浮かんで来たら即座にその考えに支配されて超危険な人物になれ!なんていうことでは決してないです。そういうダークな考えも自分の中にはあった…と、存在を認めて解放してあげるだけでいいのです。ダークな思考の存在を「あってはならないもの」として拒絶するのではなく…。なので結局は想念観察なわけです。しかしながら、「臭いものに蓋」と思考を拒絶してしまうことと、存在を認めて解放するということは、実はかなり近い要素があって、混同しやすい部分であることは確かです。思考を思考と認めるところまでは一緒でも、「拒絶」するか「素通り」させるかでは結果が大きく異なってくるわけですが、実は「素通り」させているつもりでも、「拒絶」してしまっている場合も結構あったりします。
想念観察は一朝一夕には上手くいかないということでしょう。例えばピアノの超絶技巧のように技術的にすごく難しいということはないけど、注意力の継続とたゆまぬ努力が必要とされます。静かなお部屋に一人座って、毎日1時間、想念を観察するというのも確かに素敵ですが、生きて働いて生活している以上は、日常生活のあらゆる場面を修練として活用できるならもっと素晴らしい効果を人生にもたらしてくれることは確実といえそうです。ただし、ただでさえ誘惑の多い日常生活の中での修練は実践するのはとても難しいです。でも、きれいごとは抜きに自分を変えるには、地道にコツコツやるしかないんです。みなさん、頑張りましょう!
※「自己観察道場」のサイトはすでにないので、記憶をもとに勉強になる点を思い出して書いてみました。自己観察道場で取り上げられていたテーマの検証をしていますが、丸パクリではないです。念のため(^_^;)
それではまた!